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千葉地方裁判所 平成9年(わ)837号 判決 1997年12月02日

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実は、「被告人は、平成九年六月一日午後九時五五分ころ、千葉県船橋市《番地略》所在甲野荘北側路上において、A(当時五三年)に対し、左顔面を右手拳で一回殴打し、同人を仰向けに転倒させてその後頭部を路面に打ちつけさせるなどの暴行を加え、よって、同月三日午後三時五一分ころ、千葉県船橋市南三咲四丁目一三番一号所在滝不動病院において、同人を頭部打撲による脳障害(硬脳膜下血腫、脳挫傷)により、死亡させたものである。」というのである。弁護人は、被告人の本件行為は、被害者の被告人に対する急迫不正の侵害に対して、自己の身体等を防衛するためやむを得ずした行為であるから、正当防衛にあたり、仮にそうでなくても過剰防衛行為に該当する旨主張する。

二  そこで検討するに、関係証拠、殊に被告人の当公判廷における供述、被告人の検察官(乙四)及び司法警察員(乙三)に対する各供述調書、司法警察員作成の各実況見分調書(甲五、七)、死体解剖鑑定立会結果報告書(甲四)などによれば、次の事実が認められ、これを覆すに足りる証拠はない。

1  被告人は平成八年一一月二八日ころ千葉県船橋市《番地略》所在甲野荘二階の部屋を賃借し単身で居住していた。Aは平成三年に父親が甲野荘を建てたため、父親と共に同建物の一階部分に居住し、二階部分をアパートとして賃貸し、平成八年三月、父親が死亡してからは単身で居住していた。

2  被告人は平成九年六月一日午後九時四五分ころ帰宅し、アパート二階の自室に戻ろうとしたところ、一階のA方からドンドンドンと大きな音が聞こえ、入室後もなお、大きな音が続き、更にA方の玄関の扉が全開になっており、同人の「出てけ。」と怒鳴る声が聞こえたので、同人が誰かと室内で争っていると思い、もしそうであれば仲裁に入ろうと思って自室を出て外階段を下りて同人方へ向かった。

3  被告人は全開になっている同人方玄関先から「すみません。すみません。」と三回ぐらい大声で呼びかけたところ、同人が玄関内側上がり口のところまで出て来て、被告人の「どうしたのですか。」との問いに大声で怒鳴るように「おまえには関係ないだろう。」と言った。被告人は「ちょっと音がうるさくて心配になって来てみたんですよ。」などと言ったところ、同人から「裁判になればわかる。」と言われたため「じゃ、私を訴えるんですか。」と聞いたところ、同人は「いやお前じゃない。」と答えた。被告人は更に同人に「じゃ何でこの時点で裁判ということが出てきたんですか。ちょっと分からないんですけど。」と尋ねると、同人から「何だこの野郎。」と怒鳴られた。被告人は右一連の応答から、同人が一人で暴れていたのだと理解し、これ以上同人と話しても無駄だと思い、「じゃ、寝れないんで静かにしていただけませんか。」と言ったところ、同人から「じゃ寝なきゃいいだろう。俺はまわりの人に頭がおかしいと言われているんだ。」と言われたため、これ以上同人にかかわらないで自室に帰ろうと決心し、「自分でそういうことを言うからまわりの人に頭がおかしいと言われるんじゃないですか。」と言って自室に戻るため外階段の方に向かって二、三歩歩いたところ、同人が大声で「何だこの野郎。」と叫びながら裸足のまま同人方玄関から飛び出してきた。そこで、被告人は驚いて玄関の方を振り向いたところ、同人はいきなり被告人のTシャツの胸倉を両手でつかみ、強い力で上に持ち上げるようにして締め上げた。被告人は「やめろよ、放せよ。」と言って同人の左右の手首を自分の手でそれぞれつかんだが、同人は放そうとしなかった。被告人は更に右手の平手を同人の左胸付近にめがけて強く一回突き出し、同人を被告人から放そうとした。しかし、同人は放そうとせず、なお締め上げ続けたので、被告人は胸倉を締め上げられたまま右手拳で同人の顔面を殴打し、これが同人の左顔面唇付近に当たり、同人は後ろ向きに倒れ、後頭部をアスファルト舗装の路面に打ち付けた。

4  被告人は、同人が後頭部を地面に打ち付けて仰向けに倒れたまま動かなくなったのを見て急いで自室に戻り救急車を呼び、同人は救急車で滝不動病院に搬送されたが、同月三日午後三時五一分ころ、同病院で頭部打撲による脳障害(脳挫傷、硬脳膜下血腫)により死亡した。

三  当裁判所の判断

以上の各認定事実に基づき正当防衛の成否について判断する。

1  まず、Aの被告人の胸倉をつかんで締め上げ続けた行為が、人の身体に対する不法な有形力の行使であることは明らかである。

2  次に、急迫性について検討するに、被告人の本件直前の行動をみると、被告人はAが走ってきた時には自室に帰るため同人方玄関に背中を向けて歩き出しており、自ら同人に積極的に立ち向かった様子が窺われず、同人に胸倉をつかまれても反撃せず、ひたすら同人を放そうとしていたことなどが認められ、これらの事実に鑑みると、被告人が本件犯行当時同人の侵害を予期し、あるいは挑発し、これに対して積極的に応戦し、加害したという事情は認められず、侵害の急迫性の要件にも欠けるところはない。なお、被告人の「自分でそういうこと云々」の言辞も当時の被告人の挙動等に照らし、被害者の攻撃を挑発したとまでいうことができない。

3  防衛の意思についてみるに、確かに、被告人の捜査段階における供述調書中には憤激の余りAを殴った旨の供述があり、関係証拠によれば、被告人は自分が同人のことを心配して行ったのに、同人から怒鳴りつけられた上、立ち去ろうとしたところを追いかけて来ていきなり胸倉をつかまれ締め上げるという暴行を加えられたというのであるから、被告人が当時憤激していたことは否定し難い。しかしながら、正当防衛における防衛の意思は、急迫不正の侵害の存在を認識し、これを排除する意思があれば足り、同時に憤激していたからといって、直ちに防衛の意思を欠くものとすべきではなく、そして、右認定の経緯に照らせば、被告人の本件行為は防衛の意思に基づくものと認めることができる。

4  更に、相当性について検討するに、被告人はAの暴行から逃れようと、同人の手首をつかんだり、胸を突いたりしたが(同人の左胸部には上下径約六・五センチメートル、左右径約七センチメートルの皮下出血が生じていることに照らすと、被告人は相当力を込めて突き放そうとしたことが窺われる。)、それでも同人は被告人を放さず依然強力に被告人の胸倉を締め上げ続けていたのであり、これに対して、被告人は突き放して暴行をやめさせることが功を奏しなかったためつかまれたままの態勢から被害者を右手拳でその顔面を殴打したものであり、それも一回にとどまったというのであるから、被告人の右反撃行為は、不幸にも同人の一命を失わしめるという重大な結果を惹き起こしたとはいえ、相手方の前記程度の侵害に対する防衛手段としては未だ相当性を逸脱したものとはいえない。

5  したがって、被告人がAを殴った行為は、刑法三六条一項にいう急迫不正の侵害に対して自らの権利を防衛するため、やむを得ずにした行為と認められ、右行為は処罰されず、本件は罪とならないものである。

四  よって、刑事訴訟法三三六条前段により、被告人に無罪の言渡しをしなければならないものとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 北島佐一郎 裁判官 原 啓 裁判官 三上乃理子)

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